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大学を卒業して、再び懐かしい町に戻ってきたわたしを迎えたのは、あまりにも唐突なニュースだった。


光坂高校、老朽化のため旧校舎の取り壊し。


それは、新聞記事の片隅に、申し訳程度に載った短い記事だった。


わたしは短い記事を、何度も、何度も、読んでしまう。


簡潔に、幾つかの事実が述べられている。


老朽化のため旧校舎が取り壊される。


取り壊しは三月中旬から始まる…。


三月中旬。


わたしは、思う。


…まだ、間に合う。


反射的に浮かんだのは、そんな決意だった。


まだ、間に合う。


あそこには、かつてわたしが長い時間を過ごした資料室があった。


多くのお友達と過ごした、かけがえのない場所。かけがえのない時間。


あの場所は、あと一週間もしないうちに、永遠に消えてなくなってしまう。


もう一度。あと一度だけ、あそこを訪れてみよう。


わたしはそう思った。











資料室の最後の客人











取り壊しの始まる、直前の休日。


わたしは数年ぶりに懐かしい母校への坂道を登っていた。


緩く曲線を描きながら、伸びていく坂道。そしてその両脇に桜の木。


今はまだ咲いていないけれど、高校生になった入学式の頃、満開の中を登っていって、すごく綺麗だと思ったことを覚えている。


…あの頃は、まだ、お兄さんが生きていたっけ。


ゆっくりと、坂を登っていく。


やがて、校門が見えて、校舎が見えた。


四年ぶり。


四年ぶりに、わたしはここに戻ってきた。


かつて過ごした校舎を見て、そう思う。


わたしは、ここに帰ってきて…


きっと、またここを訪れることはないような気がした。









新校舎の外来入口で用務員さんに一言声をかけると、鍵は開いているから自由に中を見ていってくれればいい、と答えをもらった。


取り壊しが決まってから、わたし以外にも見に来る卒業生がいるという話だった。


たしかに、わたしが高校生だった頃、教室はなかったけど、ここは文化部の部室として開放されていた。


だから、部活として長い時間を過ごした生徒は大勢いるはずだった。


用務員さんに礼を言い、わたしはスリッパに履き替える。


ずっと上履きで歩いていた廊下を、先生みたいにスリッパで歩いていくことが、少しだけ新鮮だった。


ぺた、ぺた、と足音が響いている。


休日だけど、登校している生徒や先生はいるはず。だけど、なんの物音も話し声もしなかった。


懐かしい夢に紛れ込んだような気がしてくる。


少しだけ、廊下の雰囲気が変わったような気がした。


卒業して四年経っているから、きっとなにも、変わらずにはいられない。


見慣れているようで、どこかちぐはぐな感じ。


少しだけ、落ち着かない気持ちがしながら…わたしは、新校舎から、旧校舎へと入っていく。




旧校舎の中は物寂しい印象だった。


なにかが足りない、と思って、すぐに、全ての物品が撤去されていることに気付く。


もう、すぐに取り壊しが始まるのだ。


備品がなくなっているのは、当然だと、思う。


だけど、物寂しくなった廊下は、わたしの心を乱した。


…わたしは、思わず、早足になる。


一階。その、一番端。忘れられたような、旧校舎の片隅。


そこに、資料室がある。


そこに、わたしの居場所が、あった。


わたしは、歩く。早足に、進んでいく。


見慣れた引き戸。


何百回と手をかけた扉。


資料室が、近付いてくる。


わたしは色々なことを思い出す。


この学校に入ってすぐに、兄が事故に遭ったこと。


それから、兄のお友達と話すようになったこと。


何度も、何度も拒絶されながら、段々彼らと仲良くなれて…


みなさんが、遊びに来てくれるようになったこと。


そしてその頃から、わたしは資料室で長い時間を過ごすようになった。


この学校の生徒からは、奇異の視線で見られていたけど…


わたしは、それでもいいと思っていた。


あの頃。


もう随分昔のような気がする。


だけどあの頃から、わたしは変わっていないような気も、した。


資料室の扉は、目の前。


わたしは引き戸に手をかける。…懐かしい感触。


からからー、と、引き戸は渇いた音をたてた。


引き戸の感じは、全然変わっていない。


思わず笑ってしまうけれど、すぐに、その笑顔は固まってしまった。


わたしは資料室の中を見ていた。




そこには…


…何も、なかった。




中に入り、がらんとした部屋を見回す。


ここに、昔、机とテーブルがあった。


でも、今は、何もなかった。


あそこに、昔、本棚が並んでいた。


でも、今は、何もなかった。


この教室は、こんなに、広かったのだと思ってしまう。


全ての備品は撤去されているのだ、きっと。廊下もそうだった。


全ては別の場所に、運び出されてしまったのだ。


ここではない、どこかに。


そこが、幸せな場所ならば、いい。わたしはそう思った。


窓辺によって、外を見る。


そこは、見慣れた景色だった。


資料室の中は何もなくなってしまったのに、眺めは少しも変わらない。


それが、すごくちぐはぐな感じがする。


じっと外を見て、部屋の中に視線を移す。


もしかしたら、再びあの頃の景色が蘇っているのでは、というありえない奇跡を、一瞬だけ想像した。


…だけど、言うまでもなく、広い広い空間があるだけだった。


わたしは肩を落とす。一体、なにを期待したのだというのだろう。


そんな時。


がらがらー、と、扉が開いた。


何もなくなった資料室。ここに加わる、もうひとり。








「…」


「…」


わたしたちは、開いた目をしばらく、合わせていた。


わたしは、誰かがここに訪れてくるなんて想像していなかった。


そして相手も、ここに誰かがいるなんて考えていなかっただろう。


すらりとした長身の男性だった。


服は私服で、この学校の先生とかではなく、同じく旧校舎を再訪した卒業生だろう。


一拍置いて、わたしは彼が、かつてよくここを訪れていた上級生のひとりだと気付く。


相手もほどなく、わたしが誰なのかわかったようだった。思わず、というように彼の表情に笑みがこぼれた。


「最後に見てみようと来たんだけど、まさか、おまえにここで会うとはな」


「いらっしゃいませ」


わたしがそう言うと、彼はにっこりと笑う。


「何もなくなっちまったな」


「そうですね…」


彼は中に入ると、さっきのわたしのように、ぐるりと中を見渡した。


そして、苦笑いを浮かべる。


その苦笑の意味はわかる。今、もうここに、思い出の痕跡なんて、ほとんどなかった。


…あるいは。


彼にとって、わたし自身が、思い出の痕跡、と言っていいのかもしれないけれど。


「すみません、今日はなんのおもてなしもできないですけど」


そう言って、わたしは笑顔を浮かべる。


その笑みが、どうしようもなく強張っているのを感じる。


…自嘲めいた言葉になってしまっていた。


なんのおもてなしもできない。何もないのだ。何もできない。


「あぁ、懐かしいな。そういや、コーヒーとかもらったよな」


彼は、わたしの意図や含みに気付いた素振りもなく、窓際に来ると外を眺めた。


教室には何もないから、眺めるところなんて、外くらいしかなかった。


「ずっとこの町にいたのか?」


「いえ、東京の大学にいってまして、この間、戻ってきたんです」


「へぇ、そうか」


優しげに、目じりが下がった。


昔、わたしたちが一緒にいた頃は、高校生だった。


若くて、途方もないくらい可能性は転がっていて、だけど立ち向かう拳をふるうこともできなかった。あの頃。


私は彼の表情を眺めていて…彼は、大人になったのだと気付く。


わたしが知っていた頃とは、全然違う、雰囲気。


この学校で、不良だと言われて他の生徒から距離を置かれて、金髪のもうひとりの先輩と一緒によくここを訪れていた、あの頃。


…それは、そうだ、もう、はるか昔のことなのだ。


彼は、前に進んでいた。きっと、否応無しに。


…それならば。


この人から見たわたしの姿は、どう、映っているのだろう?








わたしたちはぽつぽつと会話をして、旧交を温めた。


だけど、そう沢山の話題があるわけでもない。


お互いの近況を話してしまうと、自然、会話は途切れがちになった。


「…それじゃ、俺はもう行くよ」


「そうですか」


会話が途切れたところで、彼は思い立ったような素振りで、そう言う。


「じゃ、また町で会ったら声かけるよ」


「はい、わたしも」


わたしは、本当に彼に声をかけようと思った。だけど、彼が本当にわたしに声をかけようと思ってくれているか、それは、わからない。


踵を返して去っていく。


「…あのっ」


わたしはその後姿に声をかける。


「今日は、会えて、よかったです」


「ああ。俺もおまえに会えて、よかったよ。なんか昔を思い出した」


「大切な最後のお客様なのに、何もなくてすみません」


「そりゃ、しょうがないだろ。ていうか、十分、もてなしてもらったよ」


「…ありがとう、ございます」


「じゃあな」


彼は今度こそ資料室を出て行く。


わたしはその後姿を見送っている。


渇いた音をたてて扉が閉まり、しばらくの間、わたしと同じ来賓用のスリッパが床を打つ音が聞こえていて…やがて、なんの物音もしなくなる。


わたしはたったひとり、取り残されたような気持ちになった。


…今の瞬間だけ、この世界にはわたししかいないような気分。


わたしは、壁にもたれかかって、彼との会話を思い起こした。


…そして、すぐに気付く。


わたしも彼も、お互いの名前を、一度も呼ばなかったことを。


はっとして、彼が出て行った扉を見つめた。




…。


彼?



わたしは、少しだけ混乱する。


その混乱の中で、少しだけ、昔のことを思い出していた。


あの頃。


わたしはいつもここでお友達を待っていて、だけどある時、この学校の生徒の先輩が迷い込むようにここを訪ねてきたことがあった。


彼はしばしばここを訪ねてきてくれるようになって、いつしかわたしはその来訪を待つようになっていた。


…少しだけ、兄に雰囲気の似た、先輩。


わたしは、彼のことが気になっていた。


だけど、綿のようにおぼろでほのかな感情は、いつの間にかなにかに飲み込まれて埋もれてしまっていた。


…わたしのかすかな彼への好意。


高校時代の、淡く霞んだ恋心。


それなのに、今、わたしは彼の名前さえ思い出すことができないのだ。


その事実が、心を強く、揺さぶった。


そして…


彼もきっと、わたしの名前を、思い出すことはできなかったのだ。


わたしたちは歩き出してしまっていた。


まったく別の道へ。


その道は、きっともう、交差することはないのだと思った。


あの頃の時間は、もう、失われてしまったのだ。









わたしは資料室にたたずんでいた。


どれくらいぼうっとしていたか、わからない。


長い時間が経って、わたしは顔を上げた。


何もない、資料室。


…そうだ。


この場所は、既に、失われてしまったのだ。


わたしはもうここにいても何も起こらないことを悟る。


ふらりと海上に揺られるように、扉へと歩いていく。


ここはもう、資料室ではなかったのだ。


ここは既に、何にもなれない、ただの空間でしかなかった。


わたしは一体、何を求めていたのだろうか?


そんな疑問を心に宿して、わたしは扉に手をかけて、資料室を、出た。


…そして。


わたしは扉に手をかけて、閉めようとして、最後の一瞬…部屋の中を見る。


…そして。


わたしは、目を、みはる。



そこには。



部屋の隅には書庫があり、部屋の中央にはテーブルとイスがあった。


窓際の棚の上の給湯器。いつもコーヒーを作っていたところ。


テーブルの上にはテレビが乗っている。あの頃のように。


そこには、資料室が、あった。


わたしは信じられないような気持ちで中を覗き見ている。



そこには。



ひとり、ぽつんと、顔を伏せた女生徒がひとり。


彼女がゆっくりと顔を上げる。


ゆるりと伸びた、長い髪。あどけない表情。まだ、何も知らなかった、無垢な頃。


…そこには、わたしが、いた。


高校生の頃の、わたしがいた。


彼女は不安そうに、わたしのことを見ていた。


わたしたちは見つめ合う。


長い時間、見つめ合っていた。


そして、わたしは、彼女に微笑む。


彼女に、たくさんのことを、伝えたいと思っていた


だけどわたしたちの間に言葉はなかった。


伝えるべきことがある。だけど語るべき言葉はない。


できるだけ多くのことを伝えられるように、わたしは、彼女に微笑む。


大丈夫。


何も、心配はいらないから。


だから、大丈夫。


わたしの微笑。


そして、彼女の……


…そうして、わたしは、扉を閉めた。


最後の瞬間、彼女はたしかに笑ってくれていたような気がする。


今、資料室の扉は…永遠に閉ざされた。


わたしは閉ざされた引き戸を見つめる。


この中では、高校生の頃のわたしが、たくさんのお友達をもてなしながら、穏やかに笑っていることだろう。


わたしはその空間を何度も何度も大切に折りたたんで、胸にしまった。


わたしの胸に、たしかにそれはあった。


あの頃の幸せが、あった。




さようなら。




わたしは口の中でそっと呟く。




ありがとう、さようなら。


さようなら、少女のわたし。




わたしは歩き始める。


胸の内に、暖かい場所があるのを感じる。


穏やかで、人から忘れられたような片隅の教室を感じる。


だけど、わたしがその扉を開けることは、きっと、もうない。


わたしは新しい場所に歩き出している。


春。


新しい季節。


わたしの新しい居場所には、新しい仲間が待っているはずだった。


わたしは前を見る。


今見る景色は、全てが真新しく見えた。


わたしは歩き出している。


振り返ることはない。


…そうだ。


資料室の最後の客人。


それは、きっと、わたしのことだったのだ。



 

 

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